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第7官界彷徨

第7官界彷徨

伊勢のみやび・私の伊勢物語

 学生時代の担任だった阿部俊子先生の「伊勢物語/全訳注」には
「「伊勢」は、時世が藤原北家の権力確立に流動しているなかで、没落して行く貴族の1人の男が、誇り高く男の純情を歌った愛の歌物語である。
 地域的にも対人的にも彼は多面的行動的である。情(こころ)は繊細で悲哀にみちていても、待ち耐え忍ぶ女の想いとは異質である。
 又、彼は造形された人物でなく実在のきらめく歌人である。が、顔や肉体や生活を持たない。虚実の間に形像から開放され抽象されている。
「伊勢」が愛好されるのは、この辺に秘密があるようである。」

 先生はこんなに難しいことを言われなかったように記憶していますが、言っても無駄だと思われたのかもね。
 阿部俊子先生は、文芸部の顧問でもありました。夏の小旅行のときは、参加できないからと新幹線で名古屋まで追いかけてこられて、駅のホームでお小遣いを下さったことも懐かしい思い出です。また、文芸部誌を発行しようとしてできなかった時に、先生の原稿をゴミ焼き場に捨ててしまい、たいそう怒られました。なんとアットホームな学校であったことでしょう。

 時は流れ、おばんになった私は、地元のみなさんと2007年4月3日より、伊勢物語の講座をスタートさせました。テキストは角川文庫の「伊勢物語」。先生はシャイな男の先生です。

 
◇■□
 日本文学史上、一番親しまれた物語は、伊勢物語だといわれる。この物語は作者も不明であり、成立年代も確定していない。おそらくは10世紀頃に、長い時間をかけ、多くの人の手によってできたものであろうといわれています。

 源氏物語がその難解さゆえに、歴史的に見てごく少数のインテリの読み物であったことに比して、伊勢物語は、わかりやすい、短い、という広く親しまれる条件にプラスして、恋心の持ちようのお手本とされたという事があります。

 この物語は、江戸時代には300種類のテキストが作られた。江戸の260年を通じて、毎年毎年新しい版が出版され続けたことになります。
 江戸時代の初頭には、この物語の1語1語を徹底して茶化した「二勢物語」というものまであった。パロディが流行るということは、もとの伊勢物語が、いかに人々の間で知られていたかということの証明にほかならなりません。


 そしてまた、前田愛は、、文学を読むときの最初にくぐる門が、タイトルである、と言ったが、では、伊勢物語という題名は何なのか?

 詩は中国では、もとは「志」であり、志のあるものが詩人。志とは、世の中を良くしたいという思いである・・んだそうです。

 伊勢は、万葉集の出てくる伊勢の海のあわびの片恋や、大伴家持への思いを歌った笠女郎の「伊勢の海の磯もとどろに寄せる波 かしこき(畏き)人に恋ひわたるかも」
 に見られるように、うまく実らない恋愛の世界のお話、という説が有力らしいようです。


 主人公の業平は、今の内閣官房長官みたいな役職の政治家でした。
 それから、母は、伊登・伊豆(いと)内親王という人で、この伊豆さまが生涯に生んだ子どもは業平ひとりだったそうです。そして、彼女は大変興味深いものを後世に残しました。それは寄進をするので後々までも自分たちのために供養をしてほしいと書いたお寺へのお願い状?そこに手形を押したものが残っているそうです。
 その手は非常に小さくて、この手が業平を抱いたのかと思うと・・・と先生は感極まったそうです。伊豆さまは業平が37歳の時まで生きていて、業平は56歳で亡くなりました。
 今でも3つくらいのお寺で業平忌が5月28日に行われており、特に業平椿のある「不退寺」は有名ですね。

 伊勢物語はいつ作られたのでしょうか?
 勅撰和歌集の中で、業平の歌が拾遺和歌集の3首以降はないので、その頃以後はないと想像できます。そして源氏の中に伊勢物語が出てくるので、源氏物語が書かれた少し前、と考えるのが妥当であろう、と。

 源氏や竹取物語との違いは主人公が現実にいた人だったということ。源氏はフィクションなので、作者は現実に近づけようと、細かくぬかりなく、さまざまな本物らしいデータをつけています。
 伊勢物語の場合は、業平と書かずに「男」としています。それによって本物とフィクションとの2重構造になり、読者は「自分だって参加できるかも・・」と話の展開に期待してしまうようになっています。

 当時の物語は、ほとんどがゆるやかな一代記で、伊勢物語も最後は
「つひに行く道とはかねて聞きしかど
        昨日今日とは思はざりしを」
 と、病気になって死んでしまいます。
 人々は、物語を読んで生き方や道徳を学んだのだそうです。昔から道徳は教え事ではないと。
 
 閑話休題。歴史について。中国は、ある王朝の時代が終わると次の政権が前の歴史をまとめる作業がずっと続けられてきたのだそうです。「多分、今の政府は前の時代の膨大な歴史をまとめている筈です」
 随の歴史は唐が、唐の歴史は宗が・・・と今まで続いているそうです。

 日本もはじめはその真似をしたんですが、陽成天皇の次の光孝天皇以後は政府の作る歴史書がひとつもないんだそうです。その代わりに、日記や個人の家の記録などで歴史を読むのだと。
 業平については歴史書「3代実録」の陽成天皇の三七巻に、八八〇年五月二八日に、業平卒伝というものがあって、漢文で墓碑銘のように書かれています。
 母や父や兄の名前・・・(行平鍋の行平さんとか)のあとに
「業平体貌閑麗。こだわらない性格。略無才学(これは漢文ができない、という意味だが、役職からいってできないとつとまらないので、次の)善作倭歌(和歌がじょうず)のほうが際だっていたかららしい。」
 すてきな人だったようですね。

 また、業平の家は親王の家系なのですが、「賜姓皇族」といって、臣下となり、それぞれ役職についたのですがいただいた名前は有名なのは「源平藤橘」げんぺいとうきつ。
 有原は中国の詩経の小雅の中に出てくるそうです。

初段
○むかし、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいま見てけり。おもほえず、ふる里に、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きけてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ、着たりける。
*春日野の若紫のすりごろも
        しのぶの乱れかぎりしられず
となむ、おいづきて言ひやりける。ついで、おもしろきことともや思ひけむ。
*みちのくのしのぶもぢずり誰ゆえに
        乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人はかくいちはやきみやびをなむ、しける。

 初冠した若い男は、奈良の春日の里に領地を持っている。狩は領地を回りその様子を見るための高貴な人物の仕事でもあった。そこで、美しい姉妹に出会う。これから、この若き貴公子の恋物語が展開されるであろう、という読者に期待を持たせる序章です。


 男が
*春日野の若紫のすりごろも しのぶの乱れかぎり知られず
 と、大人ぶって歌を送り、ちょうどしのぶ摺りの狩衣を着ていたので、しゃれた趣向とでも思ったのだろうか、
*みちのくのしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに
 という歌の趣向を踏まえたものだ。昔の人はこのような熱烈な風雅なふるまいをしたものです。

 というところでした。そこで問題になるのが「若紫」ということば。
 最初の歌は、新古今和歌集に出てくる歌で、業平の作として間違いないそうです。この若紫という言葉は、平安時代の文献には異常に少なく、5つほど。
 その中の一つがこの歌で、ほかに

実方集というものの中に
*かこつべき故もなき身に武蔵野のわかむらさきを何に召すらむ
 という歌があるそうです。この実方という人はなんと清少納言の夫の一人かもしれない人。「左近中将」となり、そののち陸奥の守になって998年に現地で亡くなりました。
 いろいろなエピソードのある人ですが、この「左近中将」という位は、業平もそうであり、物語の主人公には非常に多く、あまり身分が低くても夢がないし、あまり身分が高くても窮屈なので、女性にモテるちょうどいい具合の役職だったようです。

 もうひとつ、わかむらさきが出てくるのは、紫式部日記の
1008年11月1日の日記
「左衛門の督「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」とうかがひたまふ」
 というのがあります。
 道長の娘の彰子が、一条天皇の皇子がめでたく誕生、その五十日の祝いの日、藤原公任が酔って紫式部の局に来て、「もし、もし、このあたりにわかむらさきはおいでですか」と聞いたのだそうです。すでにおばばになっていた紫式部は返事をしなかったのですが、心の内に
「な~に、上流の貴族が集まったといったって、この土御門には私が書いた光源氏のような方はおいでにならないのだから、紫の上なんかがいるはずないじゃん!!」
 と思ったと書いてあるそうです。藤原公任は、その頃きっての学者だそうですが、その人も源氏物語の愛読者だったんですね。
 それにしてもクールな紫式部の分析に、笑ってしまいます。道長の周辺に集まる、当代きっての政治家たちを、すっごく馬鹿にしていた様子です。

 最後の行は
「昔人は、かくいちはやきみやびをなむ、しける」
 になっていますが、ここにだけ出てくる「みやび」が、伊勢物語はみやびの物語である、という所以にもなっています。
 そこで先生は言われました。みやびは、ひなびの対義語。
 万葉集ではみやびを「風流」と呼んでいる。もともと漢籍の「風流」は、脱俗のことを意味するが、日本の風流「みやび」は「ひなび」の対義語で、都風の意味となっている。
 純粋な「みやび」は「ひなび」と対せられるすばらしい言葉であるが、しかし、時折、大変な堕落をして「ひなび」に襲いかかる。「ひなび」を傍らにおかなければ機能しない危うさを持っている言葉である。人は時には「ひなび」の心を持って「みやび」に対する必要もある。

 なんといいましょうか、これって人の心にある、差別意識のことを言われているのかと思います。「みやび」は「ひなび」を貶めることによって成り立ってはいけない、ということですね。
 

「むかし、男ありけり。奈良の京は離れ、この京は人の家まだ定まらざりける時に、西の京に女ありけり。
 その女、世人にはまされりけり。
 その人、かたちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。
 それを、かのまめ男、うち物語らひて、帰り来て、いかが思ひけむ。時は弥生のついたち、雨、そほ降るにやりける、
 起きもせず寝もせで夜を明かしては
      春のものとてながめ暮らしつ」

 まず、この京とはどこの京か?
 桓武天皇の延暦3年(784年)平城京より、長岡に遷都。同13年(794年)平安京に遷都。
 58段に、業平の住まいは長岡だと書いてある。84段には母の伊豆(いと)さまの住まいは長岡と書いてある、しかし、西の京のイメージの合う京は、平安京しか考えられないので、今は平安京だというのが定説。

「その人、かたちよりは心なむまさりたりけり」
 このところで、この男は、こういう人が好きないいやつだということがわかる。
「ひとりのみもあらざりけらし」
 この「のみ」と「けらし」は歌の言葉。散文にこれをつかう事で、歌物語としての面目躍如。
 女は他にも言い寄る男がいるのでした。

 男は、どうも、共寝できなかったらしく、弥生の初旬、涙雨のなかで歌を詠みます。
 この歌は、古今和歌集巻の13に業平の歌として載っていますが、古今和歌集は恋もはじめから別れまでの変遷順に並んでおり、巻の13は、ピークに達する直前の恋の頃だそうです。
 歌は「起きもせず、寝もせず」、アンニュイな不完全燃焼の心を歌っています。万葉の頃とは全く違う、洗練された恋の姿だとか。

 共寝については、男女の考え方の違いをはっきりと書いているのは源氏物語の薫と大君の2人。
 ここでは、何度も何度も「同じ心」という言葉が出て来るそうです。(まだ読んでいない)

 同じ心について
薫は「共寝すること」だと言い、大君は「心だけでもひとつになれる」と、くりかえし言うのだとか。この大君はアンドレジイドの「狭き門」のアリッサ(?)に比較されるそうです。

 ところで、長岡京の造営に当たった、藤原種継は、弓で射殺されたんだそうです。そしてその首謀者とされたのが、その直前に東北の多賀城に赴任していて亡くなった大伴家持。
 そのため家持は墓から遺体を引きずり出され、死して官位を剥奪されたんだそうです。
 何があったんでしょうか?


 いよいよ次回第3段は、かたちより心のまさるいい女!清和天皇の后になる前の、藤原高子の若い日のことだったと、明かされます。

 第3段
「むかし、男ありけり。懸想しける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて
 思ひあらば葎(むぐら)の宿に寝もしなむ
         ひしきものには袖をしつつも
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。」

 というのが原文です。
訳は
「昔、男がいました。思いをかけた女のもとに、ひじき藻というものを贈るとき、それに添えて歌を詠みました。
 もし、愛があるなら、葎の生い茂った卑しい家でも、共寝もできましょうに。敷物には袖をしてでも(腕枕のことらしいです)
 二条の后が、まだ帝にもお仕えしないで、普通の身分の人だったときのことです。」
 というものです。なんで「ひじき」なんか贈ったんでしょうかね。敷物に、手枕を掛け言葉にしたかったらしいです。
 先生が言われるには、源氏は、わからないものが出てくるということはない。憎らしいほどに全てに説明ができている。しかし、伊勢は、なんだかわからないものが説明もなく突然出てくる、のだそうです。ひじき!

 この、二条の后というのは、藤原冬嗣の息子、長良の娘で、基経の妹、高子(たかいこ)のことです。彼女は業平より17歳年下で、業平と恋をしそののち清和天皇の后となって陽成天皇を生みますが、そののち55歳の時に東光寺の法師と密通し、皇太后の名称を剥奪させられたという武勇伝の持ち主。

 伊勢物語では、3段、4、5、6段が二条の后の小段というようです。そののち、業平は、7段で京にいずらい、8段で京は憂鬱、9段で自分はいらない人間、となって、彼は多分高子とのことで、京にいづらくなって、東に下ったようです。

 さて、勅撰集は天皇が指示して作るものなので、官位については厳格なものがありました。ところが、896年に皇太后の位を奪われた高子を、古今和歌集、伊勢物語では「二条の后」として出てくるのはなぜか?そこに先生は、権力の側に立った藤原氏への、紀貫之たち編纂者のアンチ、権力、措置が読み取れる、と言われます。

 また、万葉集を編纂した大伴家持は、死後、謀反人として官位剥奪、死体を墓から引き出されたほどのことをされたが、それでも万葉集の編者として名が残っているのはなぜか。

 藤原氏などの政治、権力を握った家柄と、文化や文学を大事にした、在原、大伴、紀氏などの家柄との拮抗がれんめんとあったのではないか。というのが、先生の推理です。

 ちなみに、高子の生んだ陽成天皇は、エキセントリックな人柄で、3種の神器の勾玉の箱を開けようとして取り押さえられたり、乳母子を撲殺したり、して、早々に退位させられたそうです。そののち、高子の兄の基経が黒幕となって次の天皇も、次の天皇も決めるようになり、天皇家は自滅、藤原氏が勢力をますます伸ばしていく頃のことだとか。    





第4段
「むかし、東の五条に、大后の宮おはしましける、西の対に、住む人ありけり。それを、本意にはあらで、心ざし深かりける人、行きとぶらひけるを、睦月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。あり所は聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年の睦月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひて行きて、立ちて見、いて見、見れど、去年に似るべくもあらず。
 うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる
   月やあらぬ春や昔の春ならぬ
       わが身一つはもとの身にして
 とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。」

現代語訳は
「昔、東の5条に、大后の宮(仁明天皇の女御、順子)がいらした。その西の対に住む人がいた。
(これは高子(たかいこ)のことで、彼女は15歳で父を亡くしたため、叔母の順子のところに身を寄せていたらしい、当時、東の対は日常に住む所、西の対は客室)
 その人を、あるまじきこととは思いながら、深く愛していた人(業平)が、ねんごろに訪れていたが、正月の10日の頃に、断わりもなくよそに姿を隠してしまった。
 居場所は聞いてしっているけれども、人が通って行ける所ではなかったので、情けなくも日がすぎるばかりだった。
 翌年の睦月に、梅の花盛りの頃、その屋敷へ出かけて行って、立っては見、座っては見るけれども、去年とは似ても似つかぬ。
 泣いて、朽ちかけた板敷きに月の傾くまで横になっていて、去年を思い出して歌を詠んだ。
 「月が昔のままの月でない。春が昔のままの春でない。あのお方がここにいないとあっては、月も春も昔とは全く違ってしまっているけれども、この私だけが去年と変わらずにあの方のことを思い続けている」
 と詠んで、夜のほのぼのと明ける頃に、泣く泣く帰ったのだった。」

☆藤原氏の系図を見ますと、藤原冬つぐの長子長良の子どもが高子、下の方の娘に順子がいます。
 そういえば、上野で近衛家の宝物展をしているそうですが、見に行った人の話では、そこに高子の書があるそうです。
 ものすご~く上手だそうですよ。

 今日は同じ文章に2つの読み方がある「行く」について教わりました。
「いく」と読むのは俗っぽい
「ゆく」と読むのは少し丁寧でクラシック
 とのこと。伊勢物語では「いく」が多く使われ、古今などの勅撰和歌集では「ゆく」が使われるのが普通だそうです。今ではどうなんでしょうか。私はわからなかったので、書く時は「行く」と漢字で書いてしまいます。

 高子の「あり所」は聞けど、訪ねていけないところだった、の「あり所」については
 「あり所」は散文調。「ありか」は韻文調の言い方となる。そのよい例となる歌を紹介していただきました。
(後撰集)
詞書 「あり所」は知りながら、え会うまじかりける人につかはしける
歌  わたつみのそこの「ありか」は知りながら かづきて入らむ浪の間ぞなき

そうそう、業平くんは高子に去られてしまい、「憂し」と思いつつ1年を過ごしてしまったんですが、
「憂し」とは(相手がなく)反応できない不満が内向する様子。自分自身の問題。
「辛し』とは誰かが自分に対して行った事によって起きる。他人が関係するもの。
 なんだそうです。現代にも通じる「憂し」と「辛し」ですね。
 しかし、憂しでも辛しでも、1000年の後まで残った業平と高子(たかいこ)の恋。素晴らしいことです!



第五段です。
「むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、、、、」と続いて、5条の后のところに身を寄せている高子(たかいこ)のところに、門からではなく、築地の崩れているところから通って行ったのですが、高子の叔母の5条の后は、その通い路に見張りをつけました。会えなくなった男は歌を詠みます。

*人知れぬわが通ひ路の関守は
      宵宵ごとにうちも寝ななむ
(人目を忍ぶ私の通い路の関守は、毎晩眠ってほしいものです)

 その歌を見て女はとても心を痛め、主人の5条の后は警護を緩くしてふたりを会えるようにしました。(のちの)二条の后に忍んでお会いになったのを、世間の噂になったので、2人の兄が守ろうとなさったのだそうです。

 今日は源氏との比較が多かったです。
 まず、五条「わたり」、同義語であるわたりとあたりの違いは
 わたり、、、場所そのものを示す性格が強い
 あたり、、、あるもの(人が多い)を中心としたその周辺

 源氏の「夕顔」で、「六条わたりの御忍び歩きの頃、、」というのがある。このとき、六条御息所は出てこないが、「葵の巻」で読者は初めて、六条御息所の住まいにほど近いことに気が付く。

 さて、築地の崩れたところから出入りしていた、わが業平くんですが、源氏物語には築地が2カ所出て来るそうです。どこでしょうか?という先生の質問にもうなだれる私。全然記憶にありません。
 答えは須磨と、蓬生の巻の末摘花の家。
 須磨に大嵐が起きて、その後京の都にも嵐が到達、その折に末摘花の築地はひとたまりもなく壊れたといいます。
 次に、都に帰った源氏が夜遊びをしていると、どこかで見た築地塀があり、藤の花が匂っている、崩れた築地塀の屋敷は、いつかは源氏が訪れるだろうと待っている末摘花の家だったのです。

 紫式部は、この五段のイメージを持って、崩れた土塀を恋物語の小道具として使っていたな、と思って書いたのではないか。
 源氏物語には伊勢物語から影響されたと見られる部分が随所に出てくるそうです。
 それは、紫式部の持っている「言語感覚」に他ならないようで、ではその言語感覚を磨くにはどうしたらよいかといえば「毎日を真剣に誠実に生きる事」しかないとのこと。紫式部ってそういう人だったんです!

 芭蕉もこの五段のパロディの句を作っているそうです。
*猫の妻 へついの崩れより通りけり  桃青
 芭蕉は34歳、この頃は桃青という名前だったそうです。
 先生は、「遥か昔のこだまのような作品である。日本の近世までは、奈良時代から育てたものを受け止める余地があった。近代になって、そういうものを忘れることが近代化だという風潮になった。

 漱石は源氏物語を「しまりのない文体」と言った。子規も鉄幹もまた攻撃している。
 明治30年、日清日露の戦争をやって、富国強兵の道をあゆんだ日本は、万葉のような雄々しい心がないとやっていけないようになってしまった。このことは、日本人の精神史として知っておくべきことである。
 平安の文学をとりあげるベース、余地を日本の近代はなくしてしまった。それは非常に惜しいことである。」と。

 この第五段で、叔母の五条の后が2人の逢瀬を「あるじ許してけり」とありますが、このモチーフは、源氏では雲居雁と夕霧のことを祖母が許して取り持ったことに使われているそうです。

 伊勢物語は、藤原氏のホープともいうべき高子を、天皇家に入内させようとしている藤原家、やみくもにそこにぶつかろうとしている在原業平。
 現実には難しいが、文学の世界なら成り立つ世界。
 この上もない情緒を持った人間業平は、その無闇な恋を支持する人間たち(政治家ではなく文化人たち)の間でのホープで、悲恋の英雄として存在し、語り継がれ書き継がれてきたもの、なんだそうです。

前回の四段は「悲恋」
今回の五段は「得恋」 のお話なんだそうです。
 
 紫式部が源氏物語を書くにあたって、これほど伊勢物語に影響されているとは思いませんでした。
 

第6段





 第八段
 むかし、男ありけり。京を住み憂かりけむ。あづまの方に行きて住み所求むとて、友とする人ひとりふたりして、行きけり。信濃の国、浅間の岳に煙の立つを見て、
 信濃なる浅間の岳に立つ煙
   をちこち人の見やはとがめぬ

 と、歌ったそうです。京都に住みづらくなったので、東の方に移り住むことになったそうです。旅とは、行って帰ってくるものであるが、この男は移り住むつもりでいる。なので旅とはいえないのかも。
 「住み憂し」この言葉は複合語で、ひとつの言葉では言い切れないときに使われます。源氏物語は複合語が非常に多く使われています。
 ちなみに「住み憂し」は源氏では2例あるそうです。ひとつは浮き舟の歌に。

 そして、なぜ「男」は東の方に行ったのか。中国では古くから東には「蓬莱」という場所があって、そこは自由の空間と失意の人を癒す場所があるとされていたそうです。

 杜甫は、40歳以降に突然作品「詩」が出現します。その最初の詩は
「絹のふんどしをしている人間が、のんべんだらりと政治をしているのを、我慢できようか。
 (この才能を評価されない自分は)
 今は東の方、海に入らんと欲し、」
 とうたったそうです。
 心打つ言葉で病む心を癒してくれる「杜甫ノート」は、吉川幸次郎さんの解釈ですが、その吉川先生によれば、杜甫の前に孔子も同じように
「自分は今まで善かれと思って政策を偉い人に出して来たが、誰もふりむいてくれない。
 今はいかだに乗って海に浮かんでみよう」
 と歌い、中国では「海」すなわち東、という認識があるそうで、伊勢物語の主人公が東に向かったのは、こういう影響があったかららしいです。
 
 哲学者のハイデッガーは人間の生き方について「エント、ヘルヘン」(遠くに投げる、投企)ということを言ったそうです。遠くに自分を投げ、それに責任をもって近づいていく。前向きに生きる生き方。

 中央世界で志を果たせなかった人が、東の海で自己完結できそうな気がする。それが、なぜ「あづま」なのかのひとつの説です。

 第9段
 むかし、男がいて、あづまの国のほうに住む所をもとめて行きました。三河の国の八つ橋という所で、沢のほとりで干し飯を食べているときに、「かきつばた」が美しく咲いているのを見て、ある人が「かきつばた」という字を句の上にすえて、旅の歌を詠んでみて、というので
「からころも きつつなれにし つましあれば
 はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」
 と詠んだので、皆がこぼした涙で、飯がふやけてしまいました。

 そこで、「旅」について。大昔は、旅は選ばれた人しかしなかった。
 旅をする資格をもった人間は、訪れた地に名まえをつける権限もあった。
 それから平安時代になって、業平のように旅をする人がふえた。宇津の山で、業平は知っている修験者に出会います。
 
 そののち「道行文」というものができて、鎌倉時代になるとその文のストーリーでは、この場所宇津では必ず修験者に出会う、この場所では誰々に出会う、というパターンができたそうです。

 日本人は旅が好きだと言われるが、旅の文学は万葉からあった。
 かつて、天皇が国見をし、山に登って見渡せる全てが自分の領地だとしたのとは全く違うところで、高橋虫麻呂などの旅の歌は、「旅の憂い」「旅情」を歌っていて圧巻である。
 そのころからすでに、人間社会のカタルシスを、自然によってなぐさめられるということが行われてきた。
 高橋虫麻呂のうた
筑波山に登る歌
*草枕 旅の憂を 慰もる 事もありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる 師付くの田井に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを 見れば 長きけに 念ひ積み来し 憂いはやみぬ

2008年11月4日
 今日は伊勢物語の日でした。まだ九段をやっています。
 業平一行がどんどん行くと、武蔵と下総の間に隅田川がありました。
「渡守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
 さるおりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、
*名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」

 で九段がおしまいです。どうってことなく読み進められそうですが、先生は蘊蓄家。
 まず渡し守という職業について。
 これは律令に明記してある仕事だそうで、決まりは舟1艘について渡し守が2人。古くは
「度子」といい、仏教の世界でこの世からあの世に導くイメージもあるそうです。後世、度子は被差別部族の仕事となったそうです。

 類衆名義抄では
 和多利毛利  俗称和多之毛利 という、とあります。
 今昔物語には、風変わりな坊さんが寺に務めず、渡し守の姿をして、金のない旅人を無料で渡してやる話、などがあるそうです。ボランティアの草分けでしょうか?

 隅田川には平安時代2艘の舟が配置されていましたが、835年、さらにもう2艘増やすという令が政府より出たそうです。往来が頻繁になり、2艘では足りなくなったようです。
 この年は在原業平11歳の年。

 渡し守に聞いた鳥の名が「都鳥」。自分たちの恋い慕っている「都」がものを思う事もない鳥の名前になっている、そのことが一行の心を打った。
「みな人ものわびしくて」一同の心が一緒に共感関係をもち精神を通わせる対象としての都鳥。

 異境の夕暮れの不安感の中に鳥がいて、夕映えの光を浴びながら
「水の上に遊びつつ魚を食う」

 紫式部日記によれば、一条天皇に皇子が生まれたころ、ちょっとメランコリックな式部のある日
「私はもの思うことが多いんだけれども、水鳥は思うことなげに浮いているのが見える」と書いてあるそうです。
 「もの思う私」と「もの思わない鳥」そのバランスで心身の安定をとりもとうとする紫式部のラジカルな思い。

 業平一行も、都鳥の無心に魚を食う姿に、癒されたのでしょう。

2008年12月2日 
第十段。
「むかし、男、武蔵の国までまどひありきける。」
 さて、その国にいる女に求婚しました。女の父は他の男に目あわせようとしたのですが、母が、血筋の良い人に執心したのでした。父親は身分の低い素性の人で、母は藤原氏の出なので、素性の良い人に娘を、と思ったのでした。
 この婿にと思い定めた男に、母が歌を贈りました。住んでいるのは入間のみよし野というところなのでした。
*みよし野の田の面に降り立っている雁も、ひたすらあなたに心を寄せているということで鳴いているようです。
 婿にと思われている男も歌を返します。
*私の方に関心を寄せているということで鳴いている雁を忘れることなどがありましょうか。
 と。
 田舎に来ても、女を思うようなことは、止まなかったのです。

 第十段はこのような内容です。伊勢物語は、都を中心とした物語で、そこに主人公にとって最も大切な女性がいる。忘れられない流浪している男の姿は、源氏物語で、藤壷という一人の女性を忘れ難く、女性たちの間をさすらう源氏の姿の原型ともいえるそうです。

「母なむ藤原なりける」
 都から遠く離れた地で、地方長官の妻となっている藤原氏の娘は、都の風情を持った高貴な血筋の男を、娘の婿にしたいと思ったのです。

 古来、娘の結婚に対しては母親の影響が強かったようです。
 「父は、こと人にあはせむ」 
 ここでも、父親は、この男とは別の男に娘をやりたいと思う、それは都のみやびが分からない田舎者だと作者は捉えています。
 「母なむ、あてなる人に心つけたりけむ」
 「なむ」は「父は」の「は」よりも強い言葉。普通は話を聞かせようとしている人への働きかけの言葉で、会話や手紙文に限られる。これは地の文に出て来た珍しいケースです。
 父は~だった、ところがおかあさんはね~、というような意味合いです。

 この話の書き出しは「武蔵の国」ですが、どうも、この家族は武蔵の国主ではなく、埼玉の入間あたりの、郡の長だったようです。
 なぜ入間が出て来るのか。それは不明ですが、先生はある仮説を立てられました。
 狂言に入間川という台本があります。それは、都から来た大名と従者が「入間言葉/いるまことば」を使う話ですが、入間言葉というのは、何でも反対にいうのです。
「返してください」を「返さなくてもいい」というような。そこで、この伊勢物語の第十段を、入間言葉にして、母が、娘を娶ってくださいというのが本心でなかったら、、、という仮定です。

 しかし、狂言は室町時代の作なので、その前に入間言葉があったかどうか、まだ調べてないので、なんともかんともということです。

 日本の古くからの婚姻制度で、娘の結婚に母が意思を通す場合が多いのは、万葉集にも多く歌われているそうです。
*たれそこの我がやど来呼ぶたらちねの母にこうはえ物思ふ我を(2527)
 (家の外で呼んでいるいる男に会いたいが、母に怒られて会えない私)
*玉垂れの小簾のすみきに入り通ひ来ね たらちねの母が問はさば風と申さむ(2364)
 (ちょっと汚れたスダレの所を通って来て、母が聞いたら風だと答えるから)
 
 狂言と能の話が出たので、先生に以前行った千葉の「うとう原」という所の話をしてみました。そこの近くに「うとう伝説」があって、それが能の「うとう/善知鳥」のモデルだそうです。

 うとう原という場所は千葉の山奥の部落です。あるダムの奥を抜けて細い道をどんどん行くと突然、千葉の田舎とは違う瓦屋根の家が数軒出現し、瓦屋根を乗せた土塀がまわりを囲んでいます。集落の外れに古いお堂があって、格子からのぞくと古い阿弥陀さまが鎮座しています。

 そして、耕耘機で農道を行くじいさまが、なんと「まろ顔」なんです!
 先生にまろ顔のじいさまのことを話したら、それこそ藤原氏!かも。と、盛り上がりました。私が行ったのは10年くらい前なので、もう一度行ってみたいです!


 昨日は伊勢物語の日でした。第十一段。
「むかし、男、あづまへ行きけるに、友だちどもに道より言ひおこせける、
*忘るなよほどは雲居になりぬとも
    空行く月のめぐりあふまで」

 という短い段です。短いのですが、この段は伊勢物語のシンボリックな段ともいえるそうです。

 かの教科書裁判の家永三郎先生の著書「日本道徳思想史」によれば、平安時代の貴族の心のほどを分析すると大きく2つに分けられる。
 一つは官位昇進、もうひとつは恋愛。

 当時の貴族「源宗于(みなもとのよしゆき)」は、大和物語の中で表向きの官吏の仕事では面白くない人であり、説話的文章の中に出て来る彼の表情は全然違う。
 家永論を受けて考えると、大和物語には政治と恋愛の2つのテーマがあるが、伊勢物語は恋愛のみに傾いている。
 政治家、(漢文の世界)では失格ということをネグレクトとして、業平は恋愛で自分を立てようとした。
 恋愛の中で男女をつなぎとめているのは、やまと歌、和歌の世界。
 やまと歌とは、万葉から連なり古今和歌集の世界となり、勅撰集すなわち、この国の公の文学と足りうる存在だった。
 政治には敵が多すぎる、しかも藤原氏の世。在原氏の業平が藤原氏の世界を越えて天皇近くの世界に短距離で近づくのは、やまと歌しかなかった。

 第十一段のこの短さは、難しい。
 なぜ、こんなものがこんな所にあるのか。
 なぜ、こんな歌がこんな所にあるのか。

 この歌は業平の歌ではなく、橘忠幹(ただもと)。しかも彼の歌は勅撰集には1首しか出ていないマイナー歌人。
 作者にとって忠幹が、見ぬ世の友=時を隔てた過去の人だが、今、目の前にいたら、自分と最も親しい友人になれそうな、だったら友と呼んでもいいだろうと思える存在だった可能性がある。

 この短い文に「友達ども」という言葉がある。ここで、業平は孤立していないのが分かる。官位世界を断ち切って、女との恋愛を求める業平の生き方を支持する友が複数いたのだ。

 友ー隠者の世界で道徳的に「友」という対象が出るのは中世文学。徒然草、方丈記などを「友」を中心にして読んでみると面白い、、、そうです。
 
 この段の説明を、石田譲二先生(譲は、のぎへん)が「伊勢物語成立年」を中心に説明してありますが、石田先生は伊勢物語全編は同時にできた、とする論で少数派、多くの学者さんは、出て来る歌の成立年代に注目して、三元成立の論(3回に分かれて完成した)ということが調べられているそうです。

 今回の伊勢では「見ぬ世の友」という言葉を知った事と、徒然草から「友」を読むべし、ということを知る事ができて、良かったです!


20092月3日
 第12段
「むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率て行くほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。
 女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人「この野は盗人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
*武蔵野は今日はな焼きそ若草の
    つまもこもれりわれもこもれり
 とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。」

 これについて、テキストの石田譲二先生は、「この歌は、古今集に「春日野」となっているのを、「武蔵野」におきかえて、その歌に基づいて空想的な虚構によって作りあげた」と断定しているのですが、そうではない、とこちらの先生は、論を展開してくださいました。

 石田先生は、伊勢物語の6段を下敷きにして作られた、というが、伊勢物語の成り立ちについての2つの論。
 最初から全部できていた、というのが石田先生の自説なのに、それとの整合性がない。

 第6段は、女を盗んだが盗み返されてしまった。すぐ近い12段でまた繰り返してみました、で、いいのか。

「と、読みけるを聞い」たのは、「国の守」か「逃げていた男」か?
1/国の守  それを聞いて、女をつかまえて男と一緒に引き連れて行った。
2/逃げていた男  それを聞いてやっぱりあの女と一緒にいたいと思って、女を連れて行ってしまった。

 近代の解釈は国の守というのが優勢だが、先生は、伊勢物語は枕草子と同じく裸の文学、敬語がない、説明がない。そこを補って逃げた男の歌を解する心を読み取りたい、と。

 万葉集の巻14の3452に、
*おもしろき野をばな焼きそ
   古草に新草まじり生ひば生ふるがに
 伊勢のこの歌
*武蔵野は~、は、日本で昔よりある野焼きの行事、そのときの男女の交歓。背景にある古代の風俗を読み取るべき。

 文武朝の頃、武蔵の国守に水野なんとかさんという人がいたが、その人が都に出かけた時に亡くなったのだが、その時、できたら、自分の屍を思い出多い武蔵の国に葬ってほしいと遺言した。
 時の朝廷はその気持ちを汲んで、奈良の春日野に「武蔵塚」というものを作って葬った。
 そういう故事が人々の心にあり、
「武蔵野は今はな焼きそ」は、簡単に「春日野」にイメージできる背景を持っている。

 野焼きは、古くからある行事。
 駿河か相模の国の長官が、ヤマトタケルを野に行かせ、周囲から火を放ち、焼き殺そうとした。タケルは叔母からもらった火打石で火をつけてさかさ火にして相手を殺した。その場所を「焼津」という。
 スサノオノミコトも、野で火を放たれて、絶体絶命のときに、野ネズミの「上はブスブス、下は、、、」の声に引かれて、穴にもぐって助かった、という話があるように、「野焼き」は昔の男の通過儀礼、試練の一つとして野を焼く、というのがある。

「人の娘を盗みて」の例では、更級日記に、竹芝寺の伝承というのがある。
 昔、ある帝の時代に、東国の翁が「火焚き」の役目で都に行って仕えていた。翁が「私の」国では風が吹くとひょうたんが音を立ててなんとかかんとか」と歌っていたところ、帝の姫がその音を聞きたいので連れて行ってほしいと懇願し、翁はそれを聞き入れて姫を背負って東国へ逃げた。
 瀬田の唐橋を壊し(追っ手を絶つため)姫をかついで東国の竹芝というところについて、そこに住んだ。そのあとが竹芝寺、という。

 伊勢物語は、いくつかの古代的な説話があって、それを構築しながら成立している。ただ、空想的な虚構とは言いがたい。

 「大鏡」の中には、こういうことも書かれている。
「高子が天皇の后になる前のことは、はっきりしない。伊勢物語第6段に、高子が深窓の姫君のときに、在原業平が連れて行ってしまったときに、取り戻したのが、兄弟の国経、基経。
 伊勢物語は、第6段、第12段を重ねるように書いている。第12段で「つまもこもれりわれもこもれり」と書いているのは、第6段の時のこと。
 また、第76段に高子が皇太子の生母として大原野神社に参詣した時、お供の中に業平がいて、
*大原や小塩の山も今日こそは  
    神代のことも思ひいづらめ
 と詠んだ。
 あなたは随分と偉くおなりになったけれど、あの「われもこもれり」の頃のことを覚えておいでですか?というふうに読んだのだ。」

 と、大鏡には書かれてあるそうです。
 また、謡曲「雲林院」の、世阿弥直筆のテキストには、今演じられているのとは違い、大鏡の業平と高子の「つまもこもれりわれもこもれり」のエピソードだと書かれているそうです。

 高子(たかいこ)ってどんなに素敵な人だったんでしょうね。

2009年3月3日
 第13段
「むかし、武蔵なる男、京なる女のもとに、「聞こゆれば恥づかし。聞えねば苦し」と書きて、うはがきに「武蔵あぶみ」と書きておこせてのち、音もせずになりにければ、京より、女、
*武蔵あぶみさすがにかけて頼むには
    問はぬもつらし問ふもうるさし
 とあるを見てなむ、たへがたき心地しける。
*問へば言ふ問はねば恨む武蔵あぶみ
    かかるをりにや人は死ぬらむ

 むかし、武蔵に住み着いた男が京にいるもと恋人のもとに、
 「お耳に入れるのは恥ずかしいし、知らせなかったら具合悪い、、、(実は武蔵の国に彼女ができました)」
 と、書いて、上書きに「武蔵あぶみ」とだけ書いて送りました。
 武蔵あぶみ(逢ふ身)
1、寂しさに時間を持て余して、武蔵の女に逢う身になってしまった。
2、だけど、京のあなたを思い出して、しみじみ逢いたいのです。

 武蔵あぶみのひとことに、浮気をしたよ、だけど京のお前にも会いたいよの2つの意味をこめた。京の女はそれを読み取れた。
 それきり文も来なくなったので、女は
「武蔵あぶみが両方にかかっているように、武蔵の国で私以外の女にもかかわっていらっしゃるあなたを、良かったとはいえないし、お便りをくださらないのも辛いし、かといってお便りくださるのもうっとうしくわずらわしい気がいたします」
 という歌を送りました。
 それを読んで、男は
「便りをすればうるさいという、ぶさたをしているとつらいと恨む。まるで武蔵あぶみが馬の背の両方にかかっているように、すっきりかたづかない。こんな時に、人は苦しみのあまり死ぬものだろうか」

 な~んて大げさな歌を送ったそうです。こういう男女の「齟齬」が、伊勢物語のテーマなんだそうです。
 この「武蔵鐙」について、先生は
「新猿楽記」や「庭訓(ていきん)往来」という本で調べたそうです。
 新猿楽記は、1058年の上梓。1051年より日本は末法の世に突入し、当時熱病のように京を中心に栄えたのが猿楽(さるごう)
 新猿楽記には、京の風俗がよく記述されているそうです。各地の特産品も書かれていて、上総は
「上総鍬」「武蔵鐙」が特産品だったとか。

 室町時代はじめに、庭訓往来が出来、これは1月から12月までの往復書簡の例文集であるが、内容は百科事典のようなもので、室町から明治時代まで学校教育でも基本として教えられたものだそうです。
 ここにも武蔵鐙は上総の特産品として書かれていて、武蔵鐙という言葉は、当時の人々にとって、そう珍しいものではなかったようです。

 万葉以来のやまとうたをまとめてタイトル別にしてある「古今六帖」のタイトルふみたがへ(誤配)のなかに
(なんと珍しいことを考える人々がいたものです!昔の日本人)
*定めなくあまたにかくる武蔵鐙いかに乗ればか文はたがふる
 という歌があり、伊勢の男はそれをふまえて、
 しかし、歌は書かずに武蔵鐙とだけ書いて、そういう意味をお前は分かるか?という勝手な男。それを理解して悔しいとは思うけれど、未練もある女。
 2人はきっと同じ価値観を持つ同類項の人間だったんですね。周辺にはなかなかいない「同志」だったんでしょう。
 


 第16段
「むかし、紀有常といふ人ありけり」から始まります。今まで、「むかし男ありけり」と、物語の人物ばかりだったのが、実在の人が出て来ます。この人は、業平よりも10歳年上で、娘を業平と結婚させています。
 この段の概要は

「紀有常という人がいましたが、三代の天皇に仕え、良い時もありましたが、時代が変わっても政治に取り入ることができずに、妻が別れて出家をして尼になるといっても、持たせるものがなかった。友人の業平にそのことを手紙で書いたところ、業平が尼の衣や夜具までを持たせてくれたので、有常はたいそう喜んだ。」
 ということのようです。今日は7行しか進まなかったので。

 有常の良い時というのは、妹の静子が文徳天皇の更衣となり、惟喬親王を生んだころで、そののち、藤原良房の娘の生んだ清和天皇の時代となります。
 世の中が変わって藤原氏が天皇と親しい関係となって政権を手中にした。そこに、政権から遠ざけられた在原家の子と紀氏の子の2人が、藤原氏と対抗できるのは、やまとうたの世界でしかなかった、のです。

 本文には有常について
「人がらは、心うつくしく、あてはかなることを好みて、こと人にも似ず」
 とあり、亡くなった時の「三代実録」の記述には
「その性格は「清警」
  さっぱりしてすがすがしく、すっきりしてはっとさせるタイプで、
「儀望がある」
  美しく整った姿かたちで、人々に期待と希望をあたえる、、、人だった、ということです。

 心うつくしく素直であでやかな姿で気品がある、ほかの人と比べる事ができないくらい、高貴な人、だった。
 しかし、世が代わり貧困のまま時を過ごしても、世の中に従う生き方をしないでいたのです。

 そして、長年生活をともにした妻とも
「やうやう床離れて、つひに尼となりて」
 床を一緒にすることもなくなって、ついに尼となって」別れてしまうのです。
 
 床離れの例として、源氏物語の花散里は、夜の時間を源氏とともにする時は、自分の床を源氏に譲り、自分は別の所に寝ていたそうです。
 また、蜻蛉日記の道綱の母は、兼家の妻でしたが、第一夫人の時姫にはかなわず、何とかして夫と共に住みたいと願いつつ、兼家がだんだん来なくなって夜離れしてしまいます。
 しかし、彼女は尼になったりせずに、息子道綱の嫁捜しに奔走(外には出なかったでしょうが)したりしながら、母の役をけんめいに生きたのだそうです。

 花散里は、初めはそんなふうではなかったのに、源氏が須磨から帰ってきて以降、「心うつくし」い人の第一人者になったそうです。
 光を当てられて輝く人の姿が、千年前にすでにあったのですね。
 
 先生は「兼家の正妻は時姫という名前が残っているのに、蜻蛉日記の作者は名前も残らず、息子の道綱の母としか知られていない、かわいそうだ」と言われました。
 でも、時姫はどんな人か分からないけど、道綱の母は蜻蛉日記によって、千年後もその息づかいまで私たちの所によみがえりますね。その方が素晴らしいなあと思うのです。
 思えば、蜻蛉日記、その姪の書いた更級日記、女のふりして書いた土佐日記。
 日記文学って日本の良き伝統だったようです。今、絵入り、写真入りでブログ更新中の莫大な数のみなさまは、伝統と未来をつなぐ1ページを更新中なんですね。


   
 
 


 
  


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